翌朝、沙里は自宅のベッドにいた。カーテンからほんの少し差し込む強い光線に、昼を過ぎたあたりかと、ぼやけた眼をこすりながら起き上がる。 テーブルの上に脱いだ洋服がまとめられている。それ事態もおかしなことなのだが、それよりもきちんと畳んでいない事が気になった。どれだけお酒を飲んだんだ? と思いつつ、玄関に鍵を掛けているのかどうか、すぐ確認に行くと、これも案の定チェーンが掛かってない。 これはいけない。よほど最近ストレスでも溜め込んでいたんじゃないかと、沙里はちょっと、自分をもとの生活スタイルに戻そうという気持ちになってシャワーを浴びた。
日差しが心地よい土曜の午後15時頃。見あげた秋の空は、人を一人にさせてくれるような空間を作り出していた。何もかもがそのままでいいような、焦りや不安を一時も感じさせない暖かい空気が、人を、包み込んでいく。
沙里はたまにしかない休日が惜しくて、二日酔いの眼差しにサングラスを当て、ふらふらと、街に出ていた。PR代理店という仕事柄、ショーウィンドーや、交差点の大きな電光モニターに映し出されるCMが普段は気になるのだが、今日はなぜかもうどうでも良くなっていたし、頭もさほど冴えていない。けれどこの状態が、なぜかとても心地良かった。
――コーヒーでも飲んで、夜が来たら帰ろう。
気まぐれに市内電車に乗りこむ。とはいっても、市内電車の路線はとても単純で、広島駅方面と、市内から遠く宮島まで行くことも出来る逆方向に大別される。宮島方面に向かえばJRと市内電車は海沿いを同じように走っていく。市内電車のほうが停車駅が多くのんびりと、そして安く小旅行が出来る。ただ、沙里はそこまで難しいことは考えていなかった。まだ慣れていない広島の街を少しでも探索したいという気持ちがあって面白半分で着た電車に乗ってみたいだけ。市内電車も広島港方面、横川、西広島と実は一つの路線を軸に分岐点がいくつかあり、それを使いこなさないと不便なのだ。
迷ってもいい時に思い切り迷っておくことも、沙里にとっては大事なことだった。
やってきた電車にとりあえず乗り込むと、青い空が車窓に広がり、差し込む陽射しが気持ちよく、そしていつしかうとうとと、また眠ってしまう沙里だった。
窓に頭をぶつけ目を覚ました沙里。慌てて周りを見渡すも、自分しか乗っていなかった。よかった、と思いつつ、やはり宮島行きに乗ったようなのだが、居眠りしても続く長い道のり、人気のなさに、ちょっと今日はこの辺にしておこうかと冒険心にブレーキがかかった。
急いで市内電車を降りると、そこは川にかかった橋の上。海まですぐ目と鼻の先だった。けれど海辺に人のいない十一月の海は波がざわついていて、遠目から見るにはキラキラと輝いて美しかった。それなら山の方に向けて歩いてみたほうが面白そうだと沙里は振り返り歩き始めた。白い子猫がふらりと現れて、坂道を立ち並ぶ木々の木陰を渡るように、先へ先へと行く。少し長めなセーターの袖を揺らし、ロングスカートをふわりと浮かせながら、彼女もまた軽快に坂道を進んでいく。
すると先を行く白い子猫が、とある二階建ての民家のような建物へ入っていくのを見つけた。どうやらカフェのようで、建物の前には木製の看板が置いてある。しかしそれはあまりにさり気なく小さなもので、子猫を眼で追いかけていなければ見つけられないものだった。
カフェの名は「chaton(シャトン)」
玩具の家みたいな雰囲気のそれは、白い壁が波打つように塗られており、息づく風の流れを感じさせ、赤い屋根は三角形にポコポコとがっていて、レンガ造りの煙突まである。白く長い石造りの真っ直ぐな階段は二階へ向けて伸びていた。その先に、白い木でできた大きな扉が見える。沙里からしてみれば大きすぎるほど。
――この扉をあけて何が出てくるんだ?
扉の大きさは二メーター以上はある。猫が入った扉下の小窓でも私にはちょうどいいんじゃないだろうか? とさえ思った。
階段を登ってみようか?
沙里が躊躇していると、その大きな扉がゆっくりと開いた。
外側に開く扉に押されるように後退りする沙里の目の前に、毛玉いっぱいの赤と黄色のチェック柄セーターというのがなんともいえない、場違いな休日のオヤジが立っている。 少なくとも何かを期待させる夢のある建物から、予想外に平凡な人が出て来た事にあっけに取られた沙里だったが、そのオヤジの顔をマジマジと見つめて驚きの声を上げてしまった!! そのオヤジこそ、昨日の今日で、似ても似つかない風貌の滝だったのだ。
「滝さんなんでいるんですか!? セーターだし……」
階段を降りゆく滝もまた、何だこのお姉ちゃん、なに話しかけて来てんだ?という表情で怪訝にも無視しようとしていたのだが、すれ違う間際、滝も同じく沙里に気づき、いつものスーツ姿とはあまりの違いに二度見する驚き様だった。
「驚いたあ、いつものお姉ちゃんか。ぜんぜん違うね、スーツじゃないし」
沙里はサングラスを急いで外すと、短く切ろうか悩んでいた、半端に肩まで伸びた髪をかき上げる。帽子でもかぶってくればよかったと後悔しながら……。
しばしの沈黙の中、滝が焦りながら言った。
「昨日はゴメンな。あのバカが写真なんか撮っちゃって」
「え? 写真? 昨日」
「ああ、寝てたもんな……。ここ、あいつの撮った写真飾ってあるんだよ 」
「あいつって……?」
「悟、昨日寝顔撮った」
「え! ちょっと寝顔ってなんですか!? 撮られたんですか私! もしかして飾られちゃったりしてます!?」
滝の説明も聞かず沙里は慌てて店の中へ入っていく。昨晩の、自分の知らない醜態の記憶が、今朝からの事とも何となく説明がつき、恥ずかしくて仕方がなかった。
店に入ると目の前に大きなテーブルが一つ。大して広くもない店内に、一つだけ、ドカンと 置いてある。その回りに椅子があり、適当に座って、という感じ。だが今の沙里からしてみればこの大きなテーブルは邪魔なだけだった。
白い壁にはサイズの違う写真が大少様々な特色あるフレームに入れられ飾られている。その一枚一枚を急いで見て回ったが、自分の写真はどうやら…… 無い。
「良かった~」
カフェ店主、河村 美幸(かわむらみゆき)は大きな瓶底丸メガネでその様子をじっと見ていた。そしてそのまま表情も変えず黙って店の奥へと消えていった。
滝は沙里をテーブルに着かせ、昨日何があったかを説明し始めた。
美幸はというと、店の奥でこちらを気にせずアッサムを丁寧に入れている。アッサムといえば、甘めのミルクティーにして飲むのが定番である、でもミルクも砂糖も入れない。あくまで、ストレートである。
「そういうことだったんですね…… 。人前でいびきとか……」
「まあ、初めてじゃないわけでね」
「私、それ初めてじゃないんですか!?」
沙里が慌てていると、美幸は両手で重たそうに、カチャカチャと小刻みに音を立てながら、危なげに大きめのガラスポットを持ってきた。中にはポットに波なみと、目一杯入れられたアッサム。一滴もこぼれていないのが不思議なくらいだった。 沙里は少々苦い顔をしつつ、アッサムを一口。 濃い味と風味が強烈にぼやけた頭を冴え渡らせた。
「濃ゆ……。甘くも、あれ? 」
沙里が飲む姿を無表情で見ていた美幸。若干口角が上がったので、沙里の反応には満足なようだ。
「あの、で、なんで滝さんはここにいるんですか?」
それはこちらも聞きたいんだよ!と滝は思いつつ、沙里に話を続ける。
「ここはあれだ、悟が学生の頃から通ってて、駆け出しの頃の写真が殆どあるんだよ。作風というか、ここ数年随分写真の質感が変わってるんだ。一枚一枚、ぜんぜん違うんだ。たまに写真を見がてら、紅茶を飲みにくる。前にこの店の事は話したと思うけど」
沙里は思い出した。滝のバーに、そういえばカフェのカードが置いてあり、丘の上にある景色のいいカフェなら一度行って見たいという会話をした事を。沙里の足が自然と街を見下ろせるような高い場所を目指し坂道を上がって行くのは、そもそもそういう場所をこれまでも探し求めていたからだ。意外なところで滝に導かれてしまっていたようなものだと沙里は思った。窓の外の景色を見ながら居心地のいい場所を見つけた事を心の中でかなり喜んでいた沙里。
その傍で、カフェの店主美幸は、壁に飾られた写真を眺めていた。その姿は沙里から見ると、表情がほんの少し豊かになっているのではないか、と感じられた。それも一枚一枚思い入れがよほど強いのか、悲しげな時、嬉しげな時、ほんの少しの変化だが、それら一枚一枚に何か思い出でもあるように見えたのだ。
滝は話を続けた。
「悟はその時の感情を色濃く一枚の写真に投影できる。それだけに、その写真を撮影した頃の思いが一枚に出てしまう。美幸さんはその思いが色濃く出た写真を買取り、ここに飾ってくれてるんだよ。ある意味では、一番最初の悟のファンかな」
沙里は壁にかけられた写真の中の一枚、自分の座った場所からまっすぐ先に飾られた写真に目を奪われた。 丘の上から広島の街を見下ろした。一見すると他愛のない風景写真だが、距離感。街をただ遠目に見ているわけではなく、そこを行き交う人の流れ、車、電車、ありとあらゆる物がその中で活き活きと生活している空気があった。
「まだ他にも、飾られてない写真あるんですか?」
美幸は初めて、ゆっくり、ニコリ、と頷いた。そして、滝が続けた。
「学生の頃に一度賞を受賞して、たいして大きな賞じゃなかったけど、新聞で取り上げられて、その直後はそこそこ撮影依頼も来てた。けど、あいつ撮れないんだな、自分の好きなものしか。それ意外はまあ、並というか、ね。俺らカメラマンは仕事となればクライアントの思いを汲み取って、それを表現するフィルターになる必要がある。それがあいつにはできなかった。」
沙里と美幸、滝をじっと見つめている。
「なに? 俺なんか、変なこと言った?」
美幸の口がわずかに、なにか言いだそうとした時、沙里が先に言った。
「滝さん、バーテンですよね。」
沈黙の後……。
「あ、そうです。俺はバーテンです。はい。」
美幸、沙里を無表情で見つめている。一瞬居心地の悪さが漂った。
夕暮れ時、空っぽになった大きめのガラスポットに、子猫が入り込もうといたずらをしている。窓から差し込む光に、まあるい日食のようなリング影が一つ。子猫がコロンと転がって、カフェの看板と同じ絵面になった。
沙里は帰路、坂道を下りながら見える、夕暮れの街の風景に見とれていた。
暮れゆく太陽が海へ真っ直ぐなオレンジ色のラインを引いて、薄くひらり輝いている波間に反射して、影になった街に一つ、また一つと電気がついていき、街灯が一斉に光る。夜の境目の不思議な時間を堪能していた。
悟という人は、こういう瞬間を見逃さず、あんなに美しい、一目で吸い込まれるような写真を撮影したのだ。そう思うと、まだまだあるであろう写真たちのことが気になった。
ほかにもあるなら、ぜひ、もっともっと見てみたいと。
そしてそんな人が、なぜ私の寝顔を撮りたいと思ったのか?
顔も覚えていないのに、沙里は少し、悟のことが気になり始めていた。
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