2013年6月7日金曜日
二〇一一年 一二月 初旬・深夜
二〇一一年 一二月 初旬・深夜
滝のバーに橙子がやってきた。長い黒髪を揺らし一人カウンターに座る。床までしっかりとのびた長い足。赤いヒールは男なら誰もが目を奪われる。彼女が注文したカクテルはヴェスパー。
滝はいきなりこれかとタイを締め直しカクテルを作り始めた。
滝と橙子、ふたりの間には緊張感がただよっている。
カクテルを待つ間、慣れた手つきでセブンスターにマッチで火をつける。その姿をみると、その場に居合わせた大概の男達は引き下がる。普通の職業の女ではないと、そのただずまいから感じ取るからだ。これも橙子がこの10年で身につけた処世術ではあるのだが、特にこの場所で、彼女は背負ってきたすべてを吐き出すように、タバコの煙を深く、ゆっくりと吐き出す。
ヴェスパーが彼女の前にやってきた。
滝は黙ってただずんでいる。
橙子は一気に飲み干すと、グラスを滝に差し戻す。
「もう一杯ちょうだい。」
「飲みつぶれるまで本題を切り出さないつもりか。」
「私にボンドは現れないの。」
「ヴェスパーはな……」
「知ってるわ。本心を ” 悟 ” られる前に、死んだ女の話でしょ。この女は私が飲み干してやるの。」
そこに重そうにパンパンに詰まった手提げ袋を二つ抱えた沙里がやってきた。橙子に呼び出されていたのだが、ゆっくりと振り向き、美しいが冷たすぎる笑顔を浮かべた橙子に背筋が凍った。この人は何かを企んでいる。と。
沙里は橙子と席をひとつ空けて座った。
「やっぱり」
と、橙子はボソリと言った。
椅子に腰をしっかりと下ろす手前で固まった沙里はふらつきながら上目遣いの橙子をまともに見えないでいる。
「大丈夫、そこに座りなさい。どのみちもう一人来るから。あなたは私に距離を置く。それくらいはもうわかってますから。」
やりにくい。
沙里だけでなく、カクテルを作る滝もまたそう思っていた。注文を早めに聞いてほったらかしにしておきたいと心底思う、そんな時。
「え~」
滝は思わず顔と口に出してしまった。 そこに現れたもう一人の女性、それはかつて悟のアシスタントを務めていた一ノ瀬(いちのせ)みかこだった。
みかこと悟は一番いい時期に出会っている。誰もがこの二人は交際していると思うほど仲が良かったし、あ、うんの呼吸を持てる間柄だった。
悟との関係の中で、自分の人生や相手の人生を初めて真剣に考え、次の人生のステップをふむことが出来たし、悟とはいい関係を保てていると思っていた。
「この子を悟アシスタントにつけます。それで渡の仕事を悟にやらせようと思うから。」
滝は驚いた顔でカクテルをすっ~と差し出すと、沙里、みかこの注文も聞かずに店の奥へと消えた。
「私のプランニングとか、渡さんとの会話の中で決めた事とかそういうのがあって、打ち合わせをしたいってお話じゃないんでしょうか?」
「カメラマン、いないでしょ?」
沙里は手提げ袋から、かき集めてきた写真と広島県内で有名どころの写真家のプロフィールをカウンターに焦って広げ始める。
「いいから、そんなもの。こちらの要求を聞き入れて、スタッフが動きやすい人がこの中にいないでしょ。」
沙里はカウンターに広げた書類を読んでくれと言わんばかりに差し出しながら強く反論する。
「この経歴を見てください。どなたも皆一流でプロ中のプロの方です。だからこそ今回の仕事もうまくこなしてくれるはずです。金額の交渉ももう始まってますし、これだけの写真を撮ってこれる人がたくさんいるんですから。」
「無理でしょうね。」
沙里が声に振り返ると、橙子よりはこぶりながら、同じく上から目線で沙里を見るみかこ。カウンターに座り、いつの間にかワインベースのカクテル、キティを飲んでいた。カウンターの中から覗く滝の申し訳無さそうな顔に沙里はアウェイ感を急激に感じた。
みかこは沙里に追い打ちを掛ける。
「あなたが揃えたのはデータと自分の感性に合う写真。今回の仕事に適応できる人物をその人柄や人間関係の中から考察して、なんていうか、女性的第六感で決めてきたわけじゃない。もし決めていたとしても、あなたは他の人のデータに振り回されて決定できない。だから手提げ袋を2つも持ってきた。ちがう?」
図星だった…… 沙里にはこの人に撮って欲しいという写真家は一人だけしかいなかった。けれどそれを決めかねていたし、広島で顔の広い橙子の意見を聞いてから決めようと莫大な資料の中からこれでもより分けた方ではあった。けれどたしかに多い。
「いいセンスしてるじゃない」
橙子は写真家のプロフィールをひとつ手にとって沙里に微笑んだ。
「言ってご覧なさい。あなたがもう決めている人、一人だけいるんでしょ?」
みかこは沙里を見つめながら赤ワインべースのロングカクテルを一口飲むと、小柄な彼女はチョコンと長椅子から降り、カウンターの写真を物色し始めた。
口から言いたいことを言い出せない沙里。
滝は急いでヴァージン・バーボンをグラスにつぐと、沙里の前に、いや手に直接持たせた。(大丈夫、ばんがれ~、オジサンついてるから!)という心の声を視線に込めて。
沙里はなんだかよくわからないけれど、言ってダメならそれはそれと意を決し、バーボンを一気に煽った。
「あ、それダブル!」
グラスをカウンターに叩きつけると沙里は他の客が動揺するくらい大きな声で叫んだ。
「私が選んだのは、中田悟さんです! それ意外はどうでもいい!!」
みかこは笑いが止まらなかった、なぜなら、沙里が持参したサンプルの写真の殆どは悟の写真だったからだ。そして、橙子がニヤニヤと手にとったプロフィールをさりに見せる。
「結局、同じ意見でしょ。あなたが仕切ってたら2時間かかる打ち合わせが5分で終わったわね。 じゃあ、後は女子会にしましょう」
やり取りを見ていた他の客は潮が引くように一斉に去っていった。
滝は今日も眠れない……。
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