2013年6月7日金曜日

二千年  その冬のクリスマス




二千年

 その冬のクリスマス、雪など降らない日本のイブに、悟は自分が吐く息の白さを、今でも鮮明に覚えていた。悟はその日、朝が来るまで、街中の飲み屋という飲み屋を、たった一人の女を探しさまよい続けていた。探していた女の名は、楓(かえで)。本当の名など知らない。

 自分の愛していた存在が死んでしまう。その事を受け入れられないまま。朝など来てほしくないと、自分の無力さに苛まれながら、悟は歩き続けていた。



 楓。彼女が語っていた事を真実とするなら。彼女はこの世に存在などしていない、儚い華、そのものだったはずだ。けれど、悟はその話のすべてを信じていたわけではない。自身もアーティスティックな感覚を持つ者として、自分の経歴、人生を、それこそ時に華やかに、時に蔑みながら、人の感情を揺さぶるように語る事も少なくないからだ。楓が話していた事は、そのすべてをフィクションとする方がつじつまが合うほど劇的だった。

 彼女は、戸籍が無いという。出会った当時19歳。彼女は実家から逃げてきたという話だった。体には、腹部に刺された傷跡もあった。家族によるDVで実家を飛び出した楓は、これまで年齢を偽り自分が身を持って出来る事のすべてをこの世に捧げ生き抜いてきたという話だった。そのせいか、話す内容も他の同年代の女性とは確かに感覚的なずれがあった。悟がどう話を合わせようと繕おうと、彼女の語る内容はすべてが、そのさらに上を行き、悟の心を見事に翻弄した。けれど、楓の語る話は全てが真実かどうか? そう、誰にもわからなかった。

 出会いのきっかけは運命と言えば聞こえよく、くだらない出来事といえばさめた表現かもしれない。大学を出たての悟は、ちょっとしたフォトコンテストでの受賞からまもなく、若くして期待され、その腕を買われて多数の仕事が望む望まざると舞い込み、それをこなしている自分への過信が自信過剰へと繋がって、ストレスフルな日常の中、夜遊びを覚え、酒を飲む事に時間をより多く割くような、昼と夜が入れ替わる荒んだ毎日の中。いつものごとく酔いに任せて、泥酔状態で見知らぬ店へと飛び込んだ事がきっかけだった。

 「なんだよ!もっとキツイ酒無いのかよ!金ならないくらでも持ってんだ。そこらのガキと一緒にすんなよ!」

 いつになく荒れていた悟。その店が普通のラウンジだと思い込んでいたが、深夜も2時を回って客を取る店が多少なりともまともなわけも無い。店内には悟一人にキャストが3人。黒服が5人はおり、いくら若造と言えど、ただ酔っぱらいました。ですまされる状況ではなかった。そしてその状況に、マルボロに火をつけ悟を冷笑する楓の姿があった。黒。スリットが切れ込んだロングスカートから長い脚が弧を描き組まれる。ゆっくりと悟に送る視線とともに、タバコの煙を吐き捨てた。

「あんた馬鹿じゃないの?」

 他の女性はまた始まったというあきれ顔。黒服は問いえばニヤリとほくそ笑んだ。

 「どういう意味で言うとんのら?」

 怖い者など無い悟は状況も考えずに楓に食って掛かった。

 「ここ、ぼったくり。あんたみたいなガキが暴れてくれりゃあ文句無いわけ。親でも何でも巻き込んで、この店でふざけた事言ってりゃ身ぐるみ剥ぐどころじゃすまないよ? だいたいお前さあ、偉そうに店はいるなり全員にビールおごったでしょ。これでもう20万だからね。」

 他のキャストの女の子はすぐさま止めに入った。ボッタクリだの何だのと、店側から明かしたんじゃあ商売にならない。というより警察に駆け込まれれば終わりだ。店内のBGMが一気にボリュームをあげてきた。楓の暴言をかき消さんばかりに。黒服は悟に詰め寄ると必死で機嫌を取ろうとする。

 「今のは冗談!冗談じゃけえゆっくりのんでってくれんさい。ぽっきり!いうたとおり1万あったら朝まで飲ますけえ」

 他の黒服は二人掛かりで楓の腕を掴み店の奥へ連れて行こうとしたその時、 悟は指差しながら立ち上がり叫んだ。

 「またんかいおまえ! おまえじゃあそこの女!」

 店中が凍り付いた。楓は悟を睨みつけた。悟に詰め寄った黒服も黙ってはいない。悟の顔面ギリギリにメンチを切ってくる。しかし悟はここでとんでもない行動に出たのだ。

 「お前らぼったくりやろ。たかだか20万てなあ、その程度ででかいつらすんなよ!」

 悟は懐から帯付きのピン札で100万ほど取り出すと、床に叩き付けた。

 「その女俺につけて、朝まで飲んでも文句無いな。必要なら、もう一束やろかい!」

 悟はその瞬間200万もの大金をその場で放り投げてしまったのだ。店内の状況は、完全に変わった。

 明け方、名も知れぬ店の前で、全店員がお辞儀でお見送りする中、悟と楓は夜明けの街を腕組んで颯爽と歩いていた。今にして思えばとてつもなく馬鹿げた出会の朝。なんのコントだ?と思わずにいられないくだらない出来事が現実に起きてしまったのだった。

 悟の日常を楓と別れたあの日から支配していた思いがあった。

 人を傷つけると、二度と仲直りはできない。

 恋をして行く中で人は何かを学び、何かを捨てる。若い頃、これが一番理解できないことであり、失ってなおその事実を受け入れ難く途方に暮れる。立ち直るということは過去を捨てるということなのか、受け入れるとはどういうことなのか? 忘れてしまうこと、それ自体が罪のように思えて、何度も悟は自問自答していた。答えを自分の中で生み出すことができるのか?それすらわからないまま、何年もの月日が流れていった。

 そして、悟は何も変わらない自分に気づいてもいた。自分自身の弱点と言おうか、性格だから仕方がないと割り切ってしまおうか? そのもやもやとした思いがたまらなく悔しく、苛立っていた。

 あの日、自分でもあまりに馬鹿げていると思う過ちと共に、楓と出会い、そこからのほんの数ヶ月の中で、愛する人を失うということを痛烈に思い知らされ、また、自分の無力さを覚えた。

 悟の頬を伝う涙を猫が舐める。

 普通の猫はこんな事しないだろう。悟の家に住み着いたこの名もなきサビ猫は悟が泣き寝入っていると必ずこれをしてくれる。 そして、悟が目を覚ますとベットから飛び降り、少し距離をとる。じっと悟を見つめると、少しずつ離れてゆき、悟が目をこすりながらその猫を見る時には、いつも窓際に座って悟を見ていた。

「また来てたのか。」

 悟が起き上がりサビ猫に近づくと、決まって窓の隙間から逃げて行く。

「いつまでもなつかないやつ。」

 悟は窓を少しだけあけておく、いつ気まぐれな”彼女”が来てもいいように。



 悟の自宅兼作業場はアナログな時代のまま時が止まっていた。10畳ほどの今時珍しい和室の中に、Wベットが一つに電気炬燵がテーブル代わりに年中置いてある。他には壁際に背の低い3段ラックが2つだけで、冷蔵庫もガスコンロもない、生活感のあまりにない部屋。その中に一眼レフ。デジタルではなくフィルム式が2台並べて置いてあり、大雑把に、カメラボディ、レンズ、アクセサリーと分けてあるだけ。もう一つのラックは衣装ケースだ。

 和室に洋家具を持ち込んだために、畳もその年月分しっかりと傷んでしまい、ベットの足は畳に沈み込んでしまっている。茶褐色に色を変えた部屋に陽射しが差し込みはじめる。テーブルの上の缶コーヒーを左手で振りながら、悟は深いため息をつき、そっと畳に目を落とす……

 真っ青な畳の色と香りが、悟の脳裏に蘇っていく。まだ、何も忘れてなどいない自分と向き合う一日が、今日もまた始まった。

 不動産屋は2人で生活を始めるにはもってこいの間取りだと言った。悟にとって初めての1人暮らしと同時に楓とともに2人暮らし。部屋を借りる事のめんどくささも初体験で、二人暮らしにどれほどのスペースが必要なのかも分からないまま、ただはしゃぐ楓の言うがままに、なんとなく、この部屋に落ち着いたのだった。楓は夜はいない。悟はそんな楓に合わせる事も出来る身軽な生活。けれどあの日ばらまいたお金に関しては、今となってはあまりに馬鹿な使い方をしたものだと楓と2人、よくベットで笑い合っていた。 

「私のために使ってくれた賞金」

「使う当ての無かったお金じゃし、べつにええよ」

 そう、悟は自分が写真で食べられるようになったきっかけのコンテスト賞金をあの日持ち歩いていたのだった。その後に舞い込んだ仕事を次々こなして得た報酬もすべて、実は全額持ち歩いていたのだった。 忙しくなる日々と裏腹に、何も得ている実感がわかなかった悟は、ありったけのお金を持ち歩いて、ただ何かを求めてさまよっていたというわけだ。

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