2013年6月9日日曜日

図書館がくれた日々と楓の影



二00五年 六月
梅雨の夕暮れ。突然の豪雨の音。傘を持ち合わせなかった人々がビルの中に飛び込み雨宿り。 そんな中、一人折りたたみ傘をバッグから静かに取り出し家路を急ぐのは小松まこ。


図書館司書をしている彼女は日常を、規則正しく送っている。ある程度の事態を想定しているので、雨ぐらいで生活のリズムがくずれることはない。彼女の勤務する中央図書館は広島城にほど近い街の中心にあり、実家から徒歩で通えるエリアにある。広島城のほとりを歩き横川という街へ抜ける。途中通る基町公園は季節の移り変わりとともに変化する整えられた街路樹があり、それが彼女のお気に入りだった。 突然の豪雨のせいか、道を歩くのは彼女と、ほんの数100m先を行く男性の姿だけ。しかもその男性は傘を持っていないようで、肩を落とし雨に強く打たれよろよろと歩いていた。街路樹5本分、4本分、3本分、まことその男性の距離は次第に詰まって行く。 と、まこの目の前で、その男性は崩れるように倒れてしまった。
これは流石に想定できる日常の風景ではない。
まこは不意の出来事に立ち止まる。 周囲には自分しかいない。携帯を取り出すと救急車を呼んだ。

救急車が駆けつけるまで、まこ以外には誰も通り過ぎる者がいなかった。そして、男性の持ち物が、つい先ほどまこが図書館で貸し出した写真集だったことで、だとしたらこの人はやはりいつも本を借りにくるあの男性か?と気にかかっていた。

その後のことはあっという間の出来事で、気づけばまこは病院の一室で男性のそばに座っていた。

「中田 悟」やはりそうだ。とまこは思った。 救急隊員に「身分証がジャケットの右ポケットに入っているはずです。」と、最近よく見かける悟のことを話しただけで、知り合いと勘違いされ、拒絶することもできずここまできてしまった。
医者からは悟が胃潰瘍になっていること。風邪もひいていて過労気味だったのか?かなり衰弱しているということも聞いてしまった。 彼女でもないのに、何だか困った。と思いつつ。彼女はそれを表情に出せない。反応もどこか鈍い。だからこそ周囲はとりあえず言いたいことだけ言って去って行く。 まこはこれまでも、いつもそういう状況を冷静に受け止め、自分にできることだけを淡々とこなしてきた。 今回はメモを書き、そろそろ帰るのが最善策のはず。雨に濡れた本は自分が持ち帰り、事情を明日上司に話して、新しい書籍を購入する手続きをして。と、明日何をやるか、彼女の中では整理がつき始めていた。
「楓(かえで)」
悟がうわ言をつぶやく。 それが名前だとはおもわず、カエデ、という色葉紅葉が頭をよぎった。

翌週、図書館で仕事をするその時々に、窓から見える木々の景色が気になった。カエデの紅葉の季節ではやはりない。それどころか木々は夏に向け日に日に緑に色づいて行く。 なぜ、今カエデなのか? まこの中で整理がつかない疑問が一つだけ残ってしまった。

悟は割と早く退院できたらしく、やはりここに本を借りにくる。その度に、よく目が会うようになった。 本を整理している時も、貸し出しの処理をしている時も、悟が自分を見ているような気がしていた。

まこにはこれまでに一度だけ彼氏がいた。23年間で1度だけ。
その時は自分に不釣り合いな人を選んでしまい、失敗だったと今では考えている。まこは自分が置かれている状況をよくよく観察はするものの、自分がこうしたいということを、あまり話す方ではない。だからなのか?その時は逆に自己主張の強いよく喋ってくれる人を選んだ。そしてやはりうまくいかなかった。彼女の無口さに相手は疲れ、その時の恋愛で彼女がした唯一記憶に残る自己主張が「別れましょう」の一言。それも手紙で伝えてしまった。 それ以降、あまり恋愛には自身がない。ただ淡々と日常生活をこなすこと。それが一番自分に合っている。とにかくイレギュラーは困ると思うようになっていた。

しかし悟という男の日常はイレギュラーの塊だし、それこそもし自分を助けてくれた人がこの子だとしたら、食事の一つも誘わなきゃと思うようなタイプである。
悟はまこに声をかけた。ごく普通に、僕をあの時助けてくれたのは君ですか?と。

神のいたずらか、このアプローチが意外とうまく行った。
まこはただ頷くのみ。やはりあまり喋らないけれど。

デートに誘われても、言われるがまま。悟が何を考えているのかを気にかけ、冷静に様子をうかがっていた。悟は逆に表情が乏しくほぼしゃべらないまことの会話に困ると写真を撮った。 悟からすれば表情の無いまこに少しでも表情を与えたいと、どこか躍起になっている部分もあった。 そして次第に、自分のために必死になってくれる悟の姿にふと笑がこぼれるようになり、お互い惹かれあいはじめてはいた。
ただこれも、世間一般に言う急接近ではなく、胃潰瘍が治るまでそれこそ数ヶ月は、悟もいつもの生活のペースに戻せず、気長にまこにつきあっていけたという理由もあってのことだった。
病院の帰りに図書館によって、まこのオススメの本を読む。 差し出されたそれを無言で受け取って閉館までそこにいた。ときたま仕事をしているまこに視線を送りながら。
帰宅する彼女をいつもの街路樹で同じ時間に待ち失せて、同じアングルで写真を撮って「同じ時間、同じ世界なんてない。雲の流れも陽射しも、そのすべてが日々違うもの」と悟はまこに見せてあげたかった。

図書館に行くと悟は現像した写真を封筒にいれて差し出す。 まこは黙ってオススメの書籍を差し出す。

こんなやり取りを半年近くつ受けたのだから、この時期の悟は気が長かった。

まこは写真を見るたびに、表情は毎日変わらないものだなあと、そのことが一番気になった。けど、表情の変え方を知らないのもまた、自分だったので仕方が無い。

悟は病気になってなかったら ”あれ以来” こんなに落ち着いて女性と向き合っただろうか? そして純粋なまでに誰かの笑顔のために努力をしただろうか?

二人にとって最高のイレギュラーは人生の転機になる、はずだった。

ようやく二人が恋人同士として付き合いはじめようとしていたある日、フリー・ジャーナリストの三上涼子(みかみりょうこ)が現れる。悟にあることを取材しに。

0 件のコメント:

コメントを投稿