二〇一二年 十二月二十四日 広島
夕暮れの繁華街。
この街には珍しい粉雪が舞い、クリスマスムードは最高潮の盛り上がりを見せていた。多くの家族連れ、冬休みに入ったばかりの学生カップルで溢れかえる街に加えて忘年会シーズンでもある。多くの人の流れで公共交通機関も麻痺寸前といえば大げさすぎることもなく、電車が混み合う前に帰路につこうと人並みをかき分けるサラリーマンの姿も少なくなかった。
その足並みを一人でも多く引き止めようと、オープンしたばかりの家電量販店には、即席サンタが多数駆けつけ、不況続きのこの国の寒さを、一時であれ払拭するべく声をはりあげている。
平和記念資料館から始まる平和大通りには、毎年この時期になると<ひろしまドリミネーション>と題されたイルミネーションが、通りの木々に豪華に飾られ、夜に向け多くの家族連れやカップルで賑わいを見せる。このきらびやかなイルミネーションの中で、一人マイクを片手に震えている女性がいた。
田村 沙里(たむらさり)である。
PR代理店会社勤務の彼女は帰国子女であり、二十六歳という若さにしてこれまで海外のクライアントとの仕事も多数こなし、地方には珍しい逸材として、界隈で評判の若きエースだ。タイトなスーツが、ややぽっちゃりとした体を引き締め、今日ばかりは余計に張り詰めた空気を醸し出していた。
PRイベント会場にいる時、彼女の眼差しは鋭いがしかめっ面というわけではなく、スタッフの動きも細かくチェックし見逃さない洞察力の鋭さで洗練されている。常にiPadを片手にタスク(仕事の流れ)をチェックし、彼女さえいれば全スタッフが会場での作業上必要な情報はすべて手にはいり、司令塔として十分すぎる、先の先を読んだ状況判断をこなしてくれもする。
これほどの彼女が、マイクを手に震えているのだった。
イベント二日前のこと。
周囲のスタッフは彼女がジャケットの前ボタンを外し、まるでお風呂にでも入っているかのような雰囲気で「つかれた~」と伸びをするのをいつも待っていた。それこそが本日のお仕事終了の合図。 毎日ほどよい仕事量で難なく一日が終了するので、スタッフは皆もうそろそろか? と少しばかりそわそわと作業を行なっていた。
沙里はいつものようにジャケットのボタンを外すと会場隅のスタッフチェアに腰掛け、バッグの中から小さな花柄の女の子らしい可愛い巾着を取り出した。スタッフが見守る中彼女は淡々と小さな湯のみをとりだして、ペットボトルのお茶を注いだ。
「このあと全体チェックを一度行います。各自30分まで休憩で」
街はクリスマス。「わりかし楽な仕事だ」と思ったのにと、スタッフは落胆の表情。ざわめくスタッフに、沙里は追撃の一言。
「皆さん手は、抜いてませんよね」
巾着には気をつけろ。が、この日からスタッフの合言葉になった。
彼女が、初めて自分から利益に関係なく手がけたいと思い、企画をし、スポンサーを発掘して仕掛けたイベントが、イルミネーションの中、屋外特設会場で開催する、フォトグラファー田中悟(たなかさとる)の写真展だった。それだけに気合の入れようが違ったのである。と同時に、それを開催する意味は沙里の個人的な思いでしかなく、周囲を振り回すことになる寸前のところで、彼女はこのイベント自体に周囲を説得し納得させるだけの意味を見出そうと、アートとビジネスのバランス感覚をギリギリのところで両立するべく心をすり減らしていた。
しかしここまで入念に準備をしてきて、イベント当日の今日、肝心の田中悟が、スピーチの時間になっても現場に現れていないのだ。
悟と昔からの知人という、スポンサーでギャラリー経営者、島田 橙子(しまだとうこ)は、集まった多数の観客を前に固まる沙里の耳元でささやいた ……。
「やっぱりね……」
この一言と、橙子がため息とともに見せた「私のほうが彼を知っている」 という、ほんの少し勝ち誇ったような微笑みを、沙里は見逃さなかった。そしてたまらなく悔しかった。マイクを力強く握りしめ、震える音が、スピーカーからかすかに漏れ出すほどに。
その場の異変に気づいた観客は、誰からともなく雑談をやめ、一人、また一人と沙里を凝視する。司令塔の言葉を失ったスタッフはただただ動揺するばかり。
悟を待つのか? 待たずに不在のコメントをここでするべきか?
彼女の時間はこの時、完全に止まっていた。
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