遠雷が鳴り響き、突然のゲリラ豪雨に人々は蜘蛛の子を散らすように一斉にその場を走り去る。タクシーのクラクションが鳴り響く。立ち上がれないでいる涼子の肩を叩くものがいる。涼子は体が震えてしまい後ろを振り返ることもできない。が、脅える涼子を抱きしめ、かかえて立ち上がらせようとしていたのは悟だった。
悟は黙って涼子をおぶり、そのまま涼子のマンションまで歩いて行く。降りしきる雨の中、その姿は滑稽で、ずぶ濡れの他人へ傘を差し出すことのない人々の群れを押しのける異様なオーラをはなっていた。交番の警察官も、二人の姿を黙って見ているだけだった。
部屋までの道、涼子は悟の背中がとても愛おしく感じられ、ずっとこのまま雨がやまないでいてくれたら、もっと強くこの背中を抱きしめていても恥ずかしくない…… と、雨が強く降れば降るほど、強く、強く悟の背中を抱きしめていた。
部屋に着くと、悟はその気持ちに応えるように、玄関で涼子を下ろすと崩れるように抱き合いキスをした。
はじめは涼子もそれを受け入れていた、けれどその時、涼子の脳裏に昔のことがよぎった。キスをされながら、涼子はカッと眼を開き、悟を全力で突き飛ばした。玄関の扉に打ち付けられた鈍い音が真っ暗な部屋に響いた。
「その優しさが大嫌いなの!」
悟はあっけに取られながらも、いつもの涼子のことだから、今日はいつにもまして機嫌が悪いんだろうと優しく微笑み返そうとした。が、涼子の眼差しがいつもと少し違う。涼子は青ざめた顔で悟に声をふり絞りながら静かに話しはじめた。
「あんたは……自分が最後まで愛せない人にも……優しさを振りまいて勘違いをさせる。その先の責任まで考えずに。人生が狂ったのは、楓だけじゃない。」
雷がまた一つ鳴り響いた。差し込む光が涼子の涙とも頬伝う雨の雫ともつかないその表情を浮き上がらせた。悟は直感した。この女、嘘をついている。それも小さい嘘ではなく、大きな隠し事をしていると。
「おまえ、楓の事を追いかけてるなんて、嘘なんだな」
涼子は悟に飛びかかった。もう帰ってくれと泣きわめいた。鍵のかかっていない玄関の扉はいとも簡単に開き、外に放り出された二人。悟への罵声が豪雨と混じりあい、雨に濡れた通路に悲鳴ともとれるヒステリックな涼子の声がマンション中に響きわたった。 近隣の住人が警察を呼び、無抵抗のまま力ない涼子に叩かれ続けた悟がようやく解放される時、深夜3時を回っていた。
駆けつけた警察官になだめられ、部屋に入って行く憔悴した涼子の後ろ姿。悟が彼女を見たのは、それが最後だった。
悟は夜と朝の境めの時間を駅に向かい歩いていた。
雨上がりの明け方の空は、空気が澄んでいるからなのか、ちぎれていく雲と、朝陽の色合いが美しく、誰かに見せたいと思うものだった。 けれど今、悟はこの朝陽を涼子に見せることができなかった。この空が美しくあればあるほど、悟の虚しさはつのっていくばかりだった。
数日後、滝は自身のバーである男に語りかけていた。
「カウンター越しの恋愛ってあると思うんですよ。そのことを結局、若い奴はわからないし、わかろうとしないから、だから、悲劇が起きた。
運命の人だと思う女と、夜の酒場で、それもカウンター越しに出会うわけがない。
横に並んでさえいれば、社長も若造も皆平等にここで酒を呑める。けれど、これが客ともてなす側じゃあ、わけが違う。酒をつぐだけに見える女も、酔っているふりをしながらずっと酔わずに、冷静に男を見てるっていうのにね。それに気づいて騙される男も、最近じゃあ減ったようなきがするな……」
男は最後の1本のタバコに火をつけた。そう、あの、悟と涼子を監視していたあの男だ。
男はタバコを深く吸い込んだ。
「あんたの言うそんな哲学、今のガキは持ってないだろうな。」
煙を吐き上げながら、男は呟いた。オールドパーのロックを煽り、男は席を立つ。
滝は黙って、グラスを磨いていた。男はさり際に一言、滝に言う。
「時間はかかるかもしれんが、だいぶ見えてきたよ。この事件のことが。あのガキは、ほんとに何も知らないんだな。」
滝の手が止まる。そして男と目があうと、滝は黙って頷いた。
男は、去っていった。
バーの中に、静けさだけが残っていた。
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