2013年6月20日木曜日

町と闇



 夜、悟は涼子とよく行く小じんまりとした居酒屋にいた。飲み屋街にある居酒屋というのは、一つ裏通りの隅の方にあるもので、街の片隅にポツリとある赤ちょうちんのそれと同じく、その町で働く人々を別け隔てなく受け入れる灯りであり、こういう場所の居酒屋は普通の客というよりは出勤前の夜の蝶や、店のオーナーなどが多い。
 悟はと言えば、よく来る変わった客の一人で、何度通おうと、この町の住人としては受け入れられていないような存在だった。なぜなら、彼はこの町にとって客であり、この町で商売をしている仲間ではないからだ。そういう男に居酒屋の店主も話しかけたりはしない。

2013年6月17日月曜日




 二00六年 十月

 三上涼子(みかみりょうこ)は、満月の夜、飲み屋街、雑居ビルの非常階段で酔いつぶれて眠る悟を、その傍に立ち、蔑み、見つめていた。


 どうせこの男も、そのうち私に手を出してくる。


2013年6月11日火曜日

まこの涙と、悟の過去




 1ヶ月の間、悟とまこは一度も会わなかった。


 まこと悟の、いつもの帰路に現れた三上涼子という女性。そこで三上が口にした楓(かえで)という人の名。 悟があまりに真剣な表情で「今日はここで別れよう」と言った事。それを考えようとしなくても考えてしまう1ヶ月は数年にも感じられ、悟が図書館に現れなくなった日々、自分の体調が崩れるのではないかというほど心が揺さぶられたことも、初めての経験であり、こんな気持が自分自身にあるのかと、自分の無表情なはずの感情が困り果てるほど神妙になり、家族からもどこか最近おかしいといわれるようになり、まこの人生のなかで最も特殊な時間が過ぎていた。


2013年6月9日日曜日

図書館がくれた日々と楓の影



二00五年 六月
梅雨の夕暮れ。突然の豪雨の音。傘を持ち合わせなかった人々がビルの中に飛び込み雨宿り。 そんな中、一人折りたたみ傘をバッグから静かに取り出し家路を急ぐのは小松まこ。

2013年6月7日金曜日

一ノ瀬みかこ(いちのせみかこ)の思い




 翌朝9時頃。カーテンを締め切り、ひとすじの光も入らない部屋に、シャワーの音が豪雨の如く響いいている。1Kにしては少し広めな八畳ほどの和室部屋を丸く、薄オレンジがかったルームランプが小さく照らす。敷きっぱなしの布団の横で、黒く四角い、冬はこたつにもなるテーブルがひとつ。その上に昨晩着ていたブラウスなどが脱いでそのまま重ねて置いてあった。

二〇一一年 一二月 初旬・深夜





二〇一一年 一二月 初旬・深夜

 滝のバーに橙子がやってきた。長い黒髪を揺らし一人カウンターに座る。床までしっかりとのびた長い足。赤いヒールは男なら誰もが目を奪われる。彼女が注文したカクテルはヴェスパー。

 滝はいきなりこれかとタイを締め直しカクテルを作り始めた。

 滝と橙子、ふたりの間には緊張感がただよっている。

元カノ、島田橙子(しまだとうこ)の過去と現在の関係





「あと一ヶ月待ってくれんじゃろうか!」

 滝に頭を下げる悟の姿があった。店のツケが払いきれない今の状況はあの頃とは大違いだ。滝も別段責めもしない。いつものことだからだ。それよりも悟がまた撮りたいなにかと出会えたことの方がなにより嬉しかったから、少しくらい応援してやろうとは思っていたから。

「まあ、いいけどさ、沙里ちゃん撮りたいんならお前ももう少し稼ぎ良くしないとどうしようもないだろう。自分が好きなもの撮って作品にしたいなら金もいる。受け仕事でも何でも、そろそろ本気で探さねえといけないんじゃないのか。」

二千年  その冬のクリスマス




二千年

 その冬のクリスマス、雪など降らない日本のイブに、悟は自分が吐く息の白さを、今でも鮮明に覚えていた。悟はその日、朝が来るまで、街中の飲み屋という飲み屋を、たった一人の女を探しさまよい続けていた。探していた女の名は、楓(かえで)。本当の名など知らない。

 自分の愛していた存在が死んでしまう。その事を受け入れられないまま。朝など来てほしくないと、自分の無力さに苛まれながら、悟は歩き続けていた。

再起の一言




 滝のバーで、胸とあごを突き出して沙里は上から目線の渡を真似している。ちょっと振り返りぎみの姿を何度もしつこく繰り返しているのだが、表情が繰り返すたびに滑稽にひどくなっていく。

「こうですよ、こう! この街にうんたらかんたら! とか言っちゃうの!」

 酔っ払う沙里を白い目で見ながら他のお客が帰っていく…….。滝は酔っ払った沙里のことよりも他のお客の対応に必至。もうどうでもいいやこの娘と言わんばかりに沙里を押しのけカウンターを飛び出していった。

「タイミングの悪い……」

PR代理店 commun(コモン) と渡(わたり)というオトコ




PR代理店 commun(コモン)

 沙里の勤務先はフランスに本拠地がある外資系広告代理店。主にPRイベントを仕掛けるのが仕事。食品、アパレルを中心に、国内外のあらゆる依頼に柔軟に答えている。

 communは国内に支社展開をしているというわけではなく、一つのプロジェクト単位で、地方であれなんであれ「日本」というくくりの中でスタッフをプロジェクトチームとして派遣する。その感覚は「世界の中の”日本”のクライアントのために」である。

 一度任せてしまえばプロジェクト立案から起動までレスポンスは非常に早く、高額なコスト条件をこなせるクライアント意外の仕事は請け負わないという、ある意味でシビア、ある意味では理にかなった強気の事業展開をしていた。そのためにcommunの利益率は非常に高く、上場後の評判も非常に高い。

 しかし、日本の競合代理店からすればまさしく黒船であった。

 カフェの名は「chaton(シャトン)」  




 翌朝、沙里は自宅のベッドにいた。カーテンからほんの少し差し込む強い光線に、昼を過ぎたあたりかと、ぼやけた眼をこすりながら起き上がる。 テーブルの上に脱いだ洋服がまとめられている。それ事態もおかしなことなのだが、それよりもきちんと畳んでいない事が気になった。どれだけお酒を飲んだんだ? と思いつつ、玄関に鍵を掛けているのかどうか、すぐ確認に行くと、これも案の定チェーンが掛かってない。 これはいけない。よほど最近ストレスでも溜め込んでいたんじゃないかと、沙里はちょっと、自分をもとの生活スタイルに戻そうという気持ちになってシャワーを浴びた。

二〇一一年 一一月 金曜・深夜





二〇一一年 一一月 金曜・深夜

 遡ること一年前、まだ悟と沙里が出会ったばかりの頃。

「最近、一人で飲む酒の量が増えたんじゃないか?」

 沙里を気遣うのは、バーマスター、滝 良彦(たきよしひこ)。 

 フォトグラファーとして過去にはそれなりに活躍した人物らしいが、その経歴を口にすることはまずない。

二〇一二年 十二月二十四日 広島




二〇一二年 十二月二十四日 広島

 夕暮れの繁華街。

 この街には珍しい粉雪が舞い、クリスマスムードは最高潮の盛り上がりを見せていた。多くの家族連れ、冬休みに入ったばかりの学生カップルで溢れかえる街に加えて忘年会シーズンでもある。多くの人の流れで公共交通機関も麻痺寸前といえば大げさすぎることもなく、電車が混み合う前に帰路につこうと人並みをかき分けるサラリーマンの姿も少なくなかった。

 その足並みを一人でも多く引き止めようと、オープンしたばかりの家電量販店には、即席サンタが多数駆けつけ、不況続きのこの国の寒さを、一時であれ払拭するべく声をはりあげている。

 平和記念資料館から始まる平和大通りには、毎年この時期になると<ひろしまドリミネーション>と題されたイルミネーションが、通りの木々に豪華に飾られ、夜に向け多くの家族連れやカップルで賑わいを見せる。このきらびやかなイルミネーションの中で、一人マイクを片手に震えている女性がいた。




 田村 沙里(たむらさり)である。
 
 PR代理店会社勤務の彼女は帰国子女であり、二十六歳という若さにしてこれまで海外のクライアントとの仕事も多数こなし、地方には珍しい逸材として、界隈で評判の若きエースだ。タイトなスーツが、ややぽっちゃりとした体を引き締め、今日ばかりは余計に張り詰めた空気を醸し出していた。

 PRイベント会場にいる時、彼女の眼差しは鋭いがしかめっ面というわけではなく、スタッフの動きも細かくチェックし見逃さない洞察力の鋭さで洗練されている。常にiPadを片手にタスク(仕事の流れ)をチェックし、彼女さえいれば全スタッフが会場での作業上必要な情報はすべて手にはいり、司令塔として十分すぎる、先の先を読んだ状況判断をこなしてくれもする。

 これほどの彼女が、マイクを手に震えているのだった。

 イベント二日前のこと。
 周囲のスタッフは彼女がジャケットの前ボタンを外し、まるでお風呂にでも入っているかのような雰囲気で「つかれた~」と伸びをするのをいつも待っていた。それこそが本日のお仕事終了の合図。 毎日ほどよい仕事量で難なく一日が終了するので、スタッフは皆もうそろそろか? と少しばかりそわそわと作業を行なっていた。

 沙里はいつものようにジャケットのボタンを外すと会場隅のスタッフチェアに腰掛け、バッグの中から小さな花柄の女の子らしい可愛い巾着を取り出した。スタッフが見守る中彼女は淡々と小さな湯のみをとりだして、ペットボトルのお茶を注いだ。

「このあと全体チェックを一度行います。各自30分まで休憩で」

 街はクリスマス。「わりかし楽な仕事だ」と思ったのにと、スタッフは落胆の表情。ざわめくスタッフに、沙里は追撃の一言。

「皆さん手は、抜いてませんよね」

 巾着には気をつけろ。が、この日からスタッフの合言葉になった。

 彼女が、初めて自分から利益に関係なく手がけたいと思い、企画をし、スポンサーを発掘して仕掛けたイベントが、イルミネーションの中、屋外特設会場で開催する、フォトグラファー田中悟(たなかさとる)の写真展だった。それだけに気合の入れようが違ったのである。と同時に、それを開催する意味は沙里の個人的な思いでしかなく、周囲を振り回すことになる寸前のところで、彼女はこのイベント自体に周囲を説得し納得させるだけの意味を見出そうと、アートとビジネスのバランス感覚をギリギリのところで両立するべく心をすり減らしていた。

 しかしここまで入念に準備をしてきて、イベント当日の今日、肝心の田中悟が、スピーチの時間になっても現場に現れていないのだ。

 悟と昔からの知人という、スポンサーでギャラリー経営者、島田 橙子(しまだとうこ)は、集まった多数の観客を前に固まる沙里の耳元でささやいた ……。

「やっぱりね……」

 この一言と、橙子がため息とともに見せた「私のほうが彼を知っている」 という、ほんの少し勝ち誇ったような微笑みを、沙里は見逃さなかった。そしてたまらなく悔しかった。マイクを力強く握りしめ、震える音が、スピーカーからかすかに漏れ出すほどに。

 その場の異変に気づいた観客は、誰からともなく雑談をやめ、一人、また一人と沙里を凝視する。司令塔の言葉を失ったスタッフはただただ動揺するばかり。

 悟を待つのか? 待たずに不在のコメントをここでするべきか?


 彼女の時間はこの時、完全に止まっていた。