2013年6月7日金曜日

元カノ、島田橙子(しまだとうこ)の過去と現在の関係





「あと一ヶ月待ってくれんじゃろうか!」

 滝に頭を下げる悟の姿があった。店のツケが払いきれない今の状況はあの頃とは大違いだ。滝も別段責めもしない。いつものことだからだ。それよりも悟がまた撮りたいなにかと出会えたことの方がなにより嬉しかったから、少しくらい応援してやろうとは思っていたから。

「まあ、いいけどさ、沙里ちゃん撮りたいんならお前ももう少し稼ぎ良くしないとどうしようもないだろう。自分が好きなもの撮って作品にしたいなら金もいる。受け仕事でも何でも、そろそろ本気で探さねえといけないんじゃないのか。」



 滝はウィンクの出来損ない的なシワ寄せた渋い表情で悟を諭す。しかし今すぐこれと言って営業に回れそうな企業もそうはない。そんな時悟が頼ってしまう相手は島田橙子(しまだとうこ)ただ一人だった。彼女とは10歳ほど歳が違う。そして悟の元カノの一人だったりする。

橙子はギャラリーの経営者で界隈では有名な存在。悟の写真にいち早く目をつけ個展を開催させるなどしたのも彼女。そしてなにより、悟が世間的にみれば堕落して行き、人間的にみれば成長しつつあることを誰よりそばで見守ってきた人物でもある。 出会って間もない頃。橙子は悟を可愛い青年だと思った。当時20歳の悟は、ルックスというより清潔感、肌の色艶の良さ、育ちがあきらかにいいであろう純真そうな笑顔が母性本能をくすぐるところがあった。 猛暑の真夏ど真ん中。市内中心部へ向けてまっすぐに伸びる太田川のほとり、寺町にある川沿いの並木道。誰もが汗だくでうだるような暑さの中で、悟は木陰から空を見上げ、差し込む光を浴びてなびく葵葉の風に流れる動きを捉えようと必死でシャッターを切っていた。その汗もまた煌き必死で何かをつかもうとしている全身からあふれる情熱的な姿に魅了されるものがあった。そんな写真を撮る悟に声をかけたのは橙子の方だった。

「何が撮れるんですか? どれも同じ木ばかりなのに。」

 この並木道の木々は川へむけてではなく車道側に向けて伸びている。まるで並木のトンネルのような感じになり、道筋だけはそこそこ日除けにもなる。背の高い悟が木々の枝葉に手が届かんばかりの勢いで写真を撮っている姿ははたから見れば異様であり、道行く人々からすればとても邪魔な存在。そんな迷惑な悟をキラキラと輝いて見えてしまった橙子もこれどこか同じ感性を持っていたのだろうか?

橙子の問いに悟はこう返した。

「面白くてしょうがないんですよ! 同じ瞬間が一度としてないっていうのを、風でなびく葉の動きを見てると感じられるから」

 その言葉を聞いて橙子はハッとした。この人は陽射しでも、木でも、葉でもなく、風の動き、言うなれば目には見えない風、そのものを撮影しようとしているんだと。 これぞ運命の出会いというか、同じ目線で世界が見れた橙子は急速に悟に惹かれて行くのだった。

 冷えた缶コーヒーを悟に手渡すと、並木道沿いにあるベンチに二人は座った。

 これがまた面白いことにぎこちない事は微塵もなく会話がスタートしてしまった。まるで長年の知り合いのように。

「僕はただ自分の目で見たものを取るというより、感じたことを撮りたいんです。なんでこのアングルかと言われれば全部自信をもって人に話せるだけの理由がある。でもそれも写真で語らないといけないところなんでしょうし、そういうのわかってくれる人も少ないですから。」

 少し悟の表情が曇った。橙子の頭の中は即座に自分にできることはないかという思いでいっぱいになった。もっと笑顔が見たい。こんな曇った顔も、できれば愚痴も聞きたくない。

「私もっと見たいですあなたの写真。もっと、もっと見たいです。」

「本も何も出しとらんですから。インターネットっていうのも、よおわからんし、ホームページっちゅうのも、ないんです。」

 悟は気弱な時も広島弁が出る。唯一これだけは自信をもって言える!という時しか標準語で話せない。そんな言葉の使い方に現れた不安さえも橙子は敏感に心で捉え、悟と同じように胸の締め付けられるような思いで聞いていた。

「そういうので良かったら出来ますよ。私作れますからそういうの、ホームページとか。今私もお店やってて、イベントとか地域ぐるみでやるような小さいのですけど、そういうの得意なんです。組み立てるっていうか、仕掛けちゃうの。」

 悟は目を見開くと少し視線を足元に落とした。そして開口一番勢いよく橙子の両肩を掴んだ。

「お願いできませんか。どんなことでもいいんです。今暮らしていかなきゃならなくて。一緒になりたい人がいるんです。どうしてもお金、いや、仕事が必要なんです。」

 彼女がいるんだ。と、橙子は内心傷ついていた。でも、今この人に何かできるのは私だけなんじゃないだろうか? 私がこの人を支えてあげたらそれはそれで幸せな事なんじゃないだろうか。 ずっと年下の男の子に恋をするなんてことありもしないだろうし。



「で、なんでもやるの?」

 10年後の橙子(とうこ)は少々手厳しい存在になっていた。
 とはいえ、包容力は今までより増している。見た目もよりふくよかに増している。 今やアート・イベントを数多く手がける中・四国では有名なギャラリー・オーナーとなった橙子。その開かれたオフィスには社長室というものがない。

陽が沈んだ後の空、マジックアワーの暖色に似た壁に囲まれた穏やかな、吹き抜けた空間がそこにあるだけ。観葉植物が壁にそって配置され、さながら森に現れた開けた空間のようだ。

 10人が余裕で使用できるほど大きな木製のロングデスクに、お揃いのロングチェア。社員は皆それに集うように仕事をしている。その様子は、まるでおとぎ話の世界のようにも見えた。

 いわゆる個人のスペースという縛りがなく、資料を山のように自分の周囲においておく必要がある多忙な者がより広くデスクを使う。 手すきの者は多忙な者を自然と助ける。そうしないといつまでたってもデスクを独り占めされてしまうから。 単純なようで、大きなデスクをみんなで共有するという姿勢が、より自然ないたわり合う気持ちとコミュニケーションを生み、仕事効率化を図る重要な要素にもなっていた。

 少し離れて、そのやり取りを見守るように、白いスーツに身を固めたロングヘアの橙子が、丸い切り株のような椅子に座っている。そのうえ橙子はいつも丸いグリーン・フレームのダテ・メガネを、チェーンで首から下げつつiPadを片手に仕事を進めている。特に目が悪いわけではない。今はやりのPC用メガネでもない。あくまでファッションとしてのメガネ。 そのせいで周囲から見ると若干老けて見え、人のいいおばさん、という雰囲気になってしまうのだが、この親しみやすい雰囲気が今の彼女の最大の武器であり人望の所以だった。

 気になることがあれば眼鏡をかけて自分から社員に歩み寄る。この方が社長に話しかけにくい雰囲気を払拭するのに一役買う。その上、ダイエットにもなる。

 そんな橙子の目の前でうなだれている悟はさながら森の迷い人。

 よくまあ私のところにこれたものだと内心呆れながらも、ここまでたどり着いた、やつれた元カレをほっておけない性分。それに振れる話がないわけでもない。

 しかし橙子は悟の性格を誰よりもよく知っている。敏感すぎるその心は意にそぐわないものを拒絶し時にトラブルを起こす。時にというより知る限りはいつもである。悟の起こした仕事上のトラブルを散々もみ消してきた。橙子がいなければ広島で悟は写真家として生活を送ることは不可能だったはずだ。

「今幾ら足りない?」

「電気水道はいいとして、家賃とかもろもろ……」

「滝さんのところね。電気も水道も止まっていてはダメね。実家暮らしに戻す気はない?」

 悟は実家の話をされると一瞬顔をあげ、そして目をそらす。

 めんどくさいと思いつつも、これだけは言わない方が良かったと橙子は少し次の言葉に困った。

「とりあえず今個展をやっても誰もこない。だからます世間の評判になるようなことをなにかやってもらわないと。来週ちょうどいい話をあなたに振れそうだから、またこの時間にいらっしゃい。その代わり今回は絶対に途中で投げ出さないこと。いいかしら。」

「了解……」

 橙子は眼鏡を外し立ち上がると笑顔で悟に歩み寄った。

「しっかりして頂戴よ。報酬はとりあえず100。レギュラーになればもっといけるかもしれないんだから。」

「100!本当に100万も出る仕事があるんかいの!」

 悟は橙子の両肩を勢いよくつかんでいた。

 橙子は正直嬉しかった。でも昔の恋に照れている自分は知られたくない。もうそんな歳でもないと身構えた。
 ブラインドから夕暮れの日差しが差し込み、外からは川辺をいく船の音がしていた。

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